2014年2月12日水曜日

妄想建国史 ―建国記念の日に寄せて―

某所にclosedな感じで書いたことを加筆修正
ひっさびさの更新に関わらず写真なし
現像めんどくさい
超長文につき注意。




「建国記念の日」とは神武天皇ことイワレヒコが東征を完遂し、
大和の地で「すめらみこと」として即位した日をなんかてきとうに計算して出した日が元ネタです(後述)
イワレヒコが大和に入った時点では、ナガスネヒコという豪族が大和を支配していました。
このナガスネヒコが信奉する神はニギハヤヒといい、一説には天孫降臨したニニギの兄であるとされています。

またオオクニヌシの子であるとか、少数派説だとスサノオの子であるなど
素性はよくわかりませんが、大和を支配していた豪族の氏神というとこですかね。
ナガスネヒコがハーゴンならニギハヤヒはシドーみたいなもんです。
ニギハヤヒは邪神じゃないけど。

ニギハヤヒは「天磐船」なる空飛ぶ(?)船に乗って、
十種の神宝を携え、はじめ河内に降臨し、その後大和に移ったとされています。

天孫降臨とは別系統の神話が大和には存在し、

ヤマト王権はその神話を紡いだ部族を征服した侵略者とも言えるのかもしれません。
ニギハヤヒは後の物部氏の始祖ともされていて、
聖徳太子の後ろ盾を得た蘇我氏が物部氏を失墜させたところで、
真に神武東征は果たされたとも言えるのかもしれませんね。

ちなみに記紀によるイワレヒコの即位の年は
大陸の讖緯説の影響をもろに受けてるのでまるっきりあてにならない創作です
讖緯説っていうのはたぶんほんとはもっと複雑なんだろうけど、
ざっくり言うと干支1周60年、それを21周した1260年ごとの辛酉の年に、
大きな政変や革命が起こる、というノストラダムスの大予言的なものです。

建国記念の日の元ネタになった紀元節も
聖徳太子が蘇我馬子と共に廃仏派の物部氏を退け、
斑鳩宮を造営した年(西暦601年)を辛酉の年として、1260年遡らせただけの日付です。
しかも計算したのは明治時代です。
ただ記紀編纂の時点で讖緯説は考慮されていた可能性が高く、
そのつじつま合わせのため、神武天皇からしばらくかなりてきとうな名前の
てきとうにでっちあげたようにしか見えない天皇様が8代ほどいらっしゃいます。
欠史八代などと呼ばれていますが、例えば第6代孝安天皇は没年137歳です。
こいつ絶対人間じゃねえ。
それ言っちゃうと神武天皇も大概なんだけど


で、聖徳太子が都合よく辛酉の年に現れてるとか、
出生エピソードが神がかり過ぎてるとかでこいつマジでいたの?って疑問が出てくるわけです。
っていうか記紀が書かれたのが8世紀、西暦700年代です。
聖徳太子より100年以上後です。
その頃には、というかそれ以前には、干支による記年法は一般的なものでしたので、
適度に近くて遠い辛酉の年に聖徳太子っていうすごい人がいてすごいことしたんだよ、
ってことにして、
さらにその1260年前にやんごとなきみかどのご先祖様がご即位されたんですよ、
ってお話にしちゃったんじゃね?
って考えたほうが自然だよね、ってなるよね。ならない?

7世紀~8世紀の日本列島では、教科書的な歴史では、
聖徳太子の政治、大化の改新、壬申の乱、大宝律令などでっかい政変起きまくってます。
皇太子ブッ殺して皇位奪いとった(壬申の乱)とされる天武天皇の事績ではなく、
あえて601年の聖徳太子をでっちあげて(?)辛酉の大革命と位置づけたことには
記紀編纂者の作為を感じずにはいられません。
ちなみに記紀編纂者は、あ、これ検閲ですかねはい古代史ロマンですね話すと長くなりますもんね。


葦原中国(っつても出雲~大和らへん、広く見ても吉備くらいまでだろうけど)を平定したのはオオクニシだし、
イワレヒコが大和入した時点で大和はナガスネヒコの配下だったわけだし
吉備神話、出雲神話の繋がりに比べて高天原神話が後付感満載(筆者の主観)なあたり、
国土を造り上げたのは天孫族のイワレヒコ(に仮託した「高天原」の大王)じゃなくてスサノオとニギハヤヒの眷属で、
イワレヒコはそれを簒奪したってほうが正しいんだろうね、とか妄想したりして。

「国譲り神話」なんて「譲り」といえば聞こえはいいけど、どう見ても脅し取ってるし。
タケミカヅチとかいう圧倒的武力で屈服させてるし。


ここから少し閑話。

国生み神話やイザナギの黄泉国訪問神話は吉備地方の神話と考えられます。
スサノオ、オオクニヌシが出雲の神さまなのは異論ないとして、
黄泉国にて腐れ果てたイザナミの亡骸にイザナギが対面する場面は
横穴式石室に安置され、「もがり」の途中にある古代日本の服喪の光景を思い起こさせるものです。
また、「黄泉国」は記紀や風土記の記述から出雲地方ではないかという説があります。

吉備、出雲地方に横穴式石室が出現するのは5世紀末頃だったっけ。
普及はさらに遅れるはず。

黄泉国神話の成立は6世紀前後と見ていいかもしれないですね。
しかしスサノオの正体を考えるともう少し遡らせてもいいのかもしれません。

ではスサノオとは何者なのか、ですが、
神話的には、ググってください。

たぶん新羅から渡来した人々を神格化したものだと思います。
ヤマタノオロチ退治と天叢雲剣取得は治水や開墾と製鉄をもたらしたことを暗示しているのでは、と。
新羅は「タバナ国」というところから海をわたってきた人が王族になったという建国神話があります。
この「タバナ国」というのは諸説ありますが、「丹波国」説が有力で、
4世紀末頃の政情不安だった新羅の国民の中で、
王族の故地である海の向こうに帰ろう、という勢力がいたかもしれません。
そういう人たちが、土木工事や製鉄技術を持って現在の山陰地方に移住し、
それらの事績が習合して「スサノオ」というひと柱の神様の姿をなした、みたいな。
そのとき横穴式石室も持ち込まれていれば、あるいは古代新羅の「黄泉国訪問」神話が移民たちに語り継がれていれば、
日本列島に横穴式石室が広がるより早く黄泉国訪問神話は完成できるはず。

吉備と出雲が繋がりを強める中、それぞれの神話が習合し、
ひとつの神話体系を作りあげたのかも。


閑話休題。



出雲・吉備は早くから連合し、
大和は独立を保ちつつも出雲吉備連合とは地理的に考えてゆるやかにつながっていたはずです。
巨大古墳を造営したのはこの人達。
便宜的に彼らを「大和連合」と呼びましょうか。

その頃筑紫では、高天原神話を紡ぐ人たちが
古代朝鮮半島や大陸とときに争いときに交易していたのでしょう。


緊迫した極東情勢の中うん百メートル級もの墳墓をいくつも造る、というのはちょっときつそうです。
広開土王碑に刻まれた、新羅を攻めたり高句麗に押し負けたりアグレッシブに戦い続けていた「倭」は筑紫勢力でしょう。
そんな戦いながらでっかい墓なんか造ってるヒマねーよ。

対外的に外に出なかった大和連合は、
連合内部だけで、あるいは新羅や百済とのちょっとした貿易や筑紫との交易で経済をある程度完結でき、
でっかい墳墓を築いたりできたんでしょう。

白村江の戦いに敗れた倭国(筑紫)が、大陸方面へは水城や大野城で守りを固めつつ、
より守りやすい大和の地を求めて侵略、
その筑紫と大和連合の戦いが壬申の乱であり、大和以西を手中に収めた倭国(筑紫)は
大化改新や律令の制定、国号や「天皇」という呼称、元号を定めて
律令国家として唐と対峙しようとした、とか?

大化の改新は645年時点で中央集権化を図る圧力の不足、
改新の詔の信憑性とかから考えれば663年(白村江敗走)より後の出来事で、
大宝律令の制定で完結する、としたほうが理にかなってる気がします。
白村江で負けた筑紫の大王が、武力を持って大和連合を配下に置き、
大国唐と対峙出来るだけの国にするべく改革を行った、
その際、大和だか筑紫だかわからないけど645年に蘇我氏が誰かに暗殺された(乙巳の変)、
っていう事実が先にあって、
後年藤原不比等がその功績を(架空の)父親に仮託し、
あたかもそこから変革が始まったかのように記した、

みたいなシナリオ、いかがでしょうか。

神話と歴史と妄想をごちゃまぜにして、
祭日に託けて垂れ流してるだけですが、事実誤認とかあったら指摘してくれたらうれしいかもしれません。
なおこの妄想に根拠はありません。
悪いのは全部不比等です。あいつがてきとうなこと書くせいでわけわからんくなっとるんや…


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