2013年7月7日日曜日

ねずみ切炭鉱



かつて、
明治や三菱のような旧財閥系資本がこのあたりの炭鉱を吸収しだした頃、
柚木原(あるいは「柚ノ木原」:ゆのきばる)と呼ばれていた地域を中心とした中小炭鉱が、
それら旧財閥系や他の大資本系炭鉱に対抗すべく、
「柚木原炭鉱組合」という組合を発足させました。

その柚木原地区をぶらぶらしたときの写真です


資料に乏しかったり複数の資料で記述が違ったりではっきりとはわからないけど、
この写真はたぶん大正初期に南里喜左衛門なる人物が創業した「ねずみ切炭鉱」の遺構。
だと思う。
(貨)柚ノ木原駅の廃止が昭和42年とだいぶあとなので
「ねずみ切炭鉱」は柚木原炭鉱組合とは関係ないかも。
これは別の組合員だった炭鉱の遺構かも。

柚ノ木原駅跡と付近の遺構についてはこちら


余談の余談ですが「南里」姓はこの地域では有力者によく見かけるので、
炭鉱あたりで築いた富を基にエネルギー革命後に現代的な事業を展開して地域の有力者として勢力を振るってるのが
この南里喜左衛門なる人の子孫なのかもしれません。
関係ないかもしれません。


2013年6月10日月曜日

2013年5月26日日曜日

飛島炭鉱#2 ―坑口、コンベア路?―


飛島海岸沿いから内陸部へ。
島の方と立ち話してたら、最近炭鉱跡周辺の草刈をして坑口まで行けるようになった、
的な話を伺ったので期待しながらうろついたら綺麗にのこってました


2013年5月25日土曜日

飛島炭鉱#1 ―積み出し港関係―


福島につづいてまたもや炭鉱の島、飛島。
こちらは陸路では行けないので船で渡りました。


2013年5月13日月曜日

鯛の鼻炭鉱#1 ―放棄された診療所―


鯛の鼻炭鉱跡概ね全景
中央らへんの山はボタ山で形を綺麗にとどめています
このあたり一帯が炭鉱を中心とした集落だったようですが、
閉山後は農地主体の集落に変わった徳義炭鉱と違い現在は荒地と廃墟が残るのみです
閉山後しばらくは採石場があったようですがそれも今は廃墟化
付近の「鯛の鼻入口」バス停だけが現在も一応生存しています


2013年5月11日土曜日

徳義炭鉱


長崎県松浦市福島に残る炭鉱の痕跡。
福島には3つの炭鉱があったようだけど、
そのうち福島炭鉱跡地は現在LPG基地になっており遺構の残存は絶望的と思われる。
徳義炭鉱と鯛の鼻炭鉱は遺構を確認できたのでそれについて。
鯛の鼻のほうは次回にでも。


2013年5月7日火曜日

横島古墳+α

長崎県松浦市の福島という島にある古墳

封土は流出し墳形不明
石室も羨道から玄門は消失。
玄室のみ現存。
あんまり見所無い(´・ω・`)

これだけじゃなんなので続きで近くにあった何かの廃墟でも。








2013年4月19日金曜日

佐賀の首無仏像

明治維新のころ、神道を国教とした中央集権国家を作りたかった新政府は、
神仏分離令を出して仏教を政府から切り離しました。

これには仏教排斥の意図はなかったのですが、
それまで長いあいださまざまな特権を与えられ強大な権力をふるっていた寺院に
抑圧されてきた人々は、この神仏分離に大義名分を得て、
いわゆる廃仏毀釈という仏教排斥運動が始まります。

この運動は寺院勢力が強かったり国学が浸透していた地域ほど激しかったようで、
佐賀ではこれ以前の仏像の多くは頭部が破壊された跡が残っています。

大半は修復されているのですが、
ときどき頭が見つからなかったのか体だけの仏様がいらっしゃるので、
そういうのをちょっとだけまとめ。
上の写真の仏様の台座部分。
「延宝二年」は西暦1674年。
古い。

佐賀の城下町に残る武家屋敷の廃墟庭部分にあったやつかな。

無縁墓地の首無観音。

墓石?に隠れるように並ぶ首無仏像。
ちょっと怖い。

放置されてるものもあれば、
こんな風にちゃんと祠を建てて花が供えられているものも。

2013年3月31日日曜日

多久の炭鉱関係こまごまと



かつて、唐津興業鉄道(現在のJR唐津線)ができるよりももう少し昔、
この写真のあたりから六角川の支流である牛津川まで石炭を運ぶために軽便鉄道という低コストな鉄道が敷かれていた、
という話をとある資料で読みました。

今でこそ佐賀―小城―多久―唐津は鉄道と国道で結ばれていますが、
多久盆地は唐津線が全線開通するまでは一本松峠と笹原峠に阻まれどちらとの交通も不便でした。

その不便を解消するため、この地で炭鉱を営んでいた人が、
佐賀平野の水運の拠点であった六角川河口の住之江港へと石炭を運ぶために軽便鉄道を敷設したという記録があるのですが、
はっきりした資料が残っていないためいろいろよくわかりません。
記録によるとその起点がこの写真のあたりのはずなのですが…。

ただ、その「地の不利」が、
戦前の筑豊炭田と(多久地区を含んだ)唐津炭田の命運を分けた大きな理由であり、
また、その「地の不利」を唐津線を開通させることで克服したことが戦後唐津炭田が輝くことができた理由でもあります。

そんな歴史を秘めた場所だけど、なにせ100年以上前なこと。
現地には何の痕跡も残っていませんでした。

ので周辺の関係あったりなかったりな炭鉱関係いろいろをば。


2013年3月23日土曜日

男の夢の跡


先日付近を訪れたら解体されていたので供養の意味も込めて、以前見たものを。
これがどういう施設か知らない方はググるなりまわりのおとなにきくなりしてください


2013年3月17日日曜日

下馬場古墳


久留米市の横穴式石室をもつ円墳。

装飾古墳らしく、石室開口部は覆屋+施錠で保護。
下調べによると覆屋のドアには鍵を持ってるお宅の地図が貼ってあるらしく、
挨拶して鍵を借りれば石室内も見学できるらしい。

が。

剥がれてるうううううううう
( ;´Д`)いやぁぁぁぁぁー!
石室うううううう!!

装飾文様見たかった(´・ω・`)

2013年3月4日月曜日

佐賀城下ひな祭り


陰気なエントリーばっかなのでたまには華やかなのを。
佐賀城下骨董市をぶらぶらしたついでに徴古館と656広場のひな壇を撮ってきました。
ここは廃墟ブログではない、写真ブログなのだ。
普段現像時色調はあんま弄らんのだけど華やかさを出したかったので珍しくちょっと弄った。


2013年3月2日土曜日

夏崎古墳


伊万里市の夏崎古墳。
横穴式石室がほぼ完存するものの、干拓の土取で封土がほとんど失われており墳形は不明。


2013年3月1日金曜日

山代炭鉱みどり坑/ホッパー・巻き上げ台座


伊万里市の里駅近くの農地内にぽつんと佇むホッパーと巻上機台座。
道にかかる部分だけ切り落とされて、「邪魔者」みたいな雰囲気。


2013年2月28日木曜日

2013年2月19日火曜日

針尾送信所無線塔


有名な物件ですが、
長崎県佐世保市、針尾送信所の巨大なコンクリート電波塔。
太平洋戦争開戦の合図となった「ニイタカヤマノボレ」は
ここから発信されたとかいう伝説がありますが真偽のほどはお察し。
西海橋水族館はこのすぐ近くです。


2013年2月16日土曜日

小島古墳


カメラが傾いてるんじゃなくて石室が傾いてるんです。
ちゃんと水準器で水平とったので間違いありませんから。

佐賀県伊万里市の横穴式石室を持つ前方後円墳。
元は名のとおり離島だったそうですが、今は陸続きになっており
古墳公園として整備されているので車で行けます。


2013年2月15日金曜日

山口鉱山別府炭鉱 ―竪坑?


小城炭鉱を紹介したのですぐ近くの別府炭鉱も。
こちらはこの竪坑らしきもののみ確認。
小城炭鉱と同じ山口鉱山による経営らしく、
遺構が入り混じっていてどれがどれかよくわからん。


このマリオが入りそうな土管のようなものが
別府炭鉱の竪坑跡らしい。
あまりにも存在感が薄い…

2013年2月4日月曜日

一本松古墳群


佐賀県小城市小城町晴気一本松、
かつて小城炭鉱があった場所のすぐ傍に残る群集墳。
古墳群から水路隔ててすぐにかつてのボタ山があり、
またこの古墳の調査は小城炭鉱閉山後に行われたようで、ほんとよく残ってたもんだ。


2013年2月3日日曜日

小城炭鉱の遺構/坑口跡?


一本松古墳群を見学したついでに、
一本松峠付近の藪の中に炭鉱関係の遺構が埋もれているという地元の人の情報を得て
ちょっと散策してみました。
写真は東多久町別府地区の炭鉱住宅跡。


旧大野木場小学校跡


長崎県南島原市、旧深江町にあった大野木場小学校の跡地。
1991年の雲仙普賢岳の火砕流に飲み込まれ消失。
災害の記憶を後世に残すため、被災当時の姿のまま火砕流遺構として保存されている。
近くの道の駅みずなし本陣ふかえにも
火砕流関係で発生した土石流に飲み込まれ、1階部分が土砂に埋もれた住居がそのままの姿で保存されているので
付近を訪れたら併せて見ておきたい。


2013年1月11日金曜日

古賀山一号古墳


せっかく年が明けたのに当ブログは石室だったり廃墟だったりの陰気な話題ばっかなので
巳年にちなんだエントリーでも書こうと思って写真フォルダを発掘。
そして結局中身は古墳のことです。


複室構造の横穴式石室ですが、
羨道がほとんど消失していて前室が羨道のように見えます。
石室慣れてる人が現地見ればすぐ複室だってのはわかるんだけどね。
これは羨道から前門、玄室方向を。
(本来の)開口部方向は藪に覆われてる上すぐ急斜面になっているので
引いた視点では撮れませんでした。
無理やり撮った写真もあった気がするけど
足場のせいかなんなのかブレが酷くて…



2013年1月8日火曜日

西隈古墳/古代人の葬儀と石室


脊振山地と佐賀平野がつながる部分というのは
非常に多くの古墳が眠っていまして、
金立山麓を散歩したりすると詳細不明の横穴式石室にでくわしたりわりとあります。
ちょうどそのラインにそって長崎自動車道が通っているため、
長崎道沿いを狙ったかのように古墳が密集しているのです。
高速道路の立地がどういった理由で決められるのは知りませんが、
古代人が安らかに眠るべく選んだ土地に
1500年後に高速道路が走り日夜騒音を撒き散らしていると考えると妙な感慨が湧いてきます。

そんな話とはあんまり関係ありませんがそういう場所にある西隈古墳を見学してたのでご紹介。
ここは石室、石棺がおもしろいので、そっち方面のお話でもしましょうかね。
写真もあんまないし。