2020年11月23日月曜日

地名に関する一考察 ―佐賀貰い子殺人事件―

 


あまり知られていない、凄惨な事件の故地をたどってみました。

今から100年以上前の話です。

かつてこの国には、望まれず産まれた子供を
決して少なくない養育費とともに里親に引き渡す、という風習が存在していました。
当時は堕胎が法律上認められていなかったため、
不倫の末産まれた子であったり、父親がはっきりしないため表に出せない子を
秘密裏に「処分」するために、
養育費を払い他人に里子に出していたわけです。

引き受けた方は、「不慮の事故で」その子が死んでしまうと、受け取った養育費分丸儲けできてしまいます。
そうして、養育費を受け取り、「不慮の事故」でその子を亡き者にし、養育費分丸儲けを繰り返す、
そんな事件が社会問題になった時期があったのです。


佐賀でも60人以上の子供が犠牲になった貰い子殺人事件があったと知り、
その故地を巡ってみました。

事件が起きたのは、当時の佐賀市の厘外津、あるいは厘外町という地域でした。
長崎街道にある道標、
その「いさはやとかい場」に向かう街道沿いにあたります。










明治期の市制施行期の佐賀市はいびつな形をしているのですが、
佐賀城跡地を中心に北側1方向と西側に2方向、あわせて3方向に飛び出した領域が伺えます。
北側は現在の佐賀駅付近までであり、佐賀駅を佐賀市域に含めたかった意図がうかがえますが、
西側の2つは何でしょうか?

西側2つのうち、北の方は、本庄江にかかる高橋という橋のあたりで、
ここは佐賀城下町の西の端と言われています。
南の方はというと、かつて船着き場があり、
相応津への船便が出ていたとされるあたりです。

佐賀の乱で破れた江藤新平が西郷隆盛を頼りに薩摩へ逃れようと船に乗った場所が相応津であると伝えられています。

市の中心部、県庁付近(佐賀城跡周辺)へ至る街道の入口を佐賀市の領域としたのでしょう。

この長崎街道の分岐のひとつ、相応津への船着き場だったあたりが
佐賀貰い子殺人事件の舞台となった厘外津になります。

今でこそ違う名前になっていますが(後述)
「のこぎり型家並み」の痕跡と思われる道路だったり、

「厘外町」の名を残す公民館(というより集会所?)だったりという
ちょっとした名残を見出すことは可能です。










この町の名前については、地元の人の話によると
過去の忌まわしい事件の記録を持つ名前を捨てたくて改名した、とのことですが、
市制施行に伴いこの地域が「厘外町」となったのが
明治22年(1889年)、事件発覚が明治38年(1905年)、
「佐賀市厘外町」の名が消滅したのが昭和44年(1965年)の住居表示実施後となり、
だいぶ時間が空いていることから、
改名時に事件のことが思い出された事自体は事実かもしれませんが、
どちらかというと
昭和29年(1954年)「昭和の大合併」で隣接する西与賀村が佐賀市に編入されたことで、
「旧西与賀村厘外」(合併後は「佐賀市西与賀町大字厘外」)と「佐賀市厘外町」が隣接してしまうため、
地名のかぶり防止のため改名されたものと思われます。
合併した近隣の同一地名とのかぶりを避けて改名というのはこの時期この辺には多数あるので
そのうちのひとつ、くらいの認識でいいでしょう。


かつての厘外町の旧街道沿いを歩くと、小さなお堂を見つけました。

未だにきちんと人の手が入っており、かなり新しく見えます。
入口付近には「昭和53年」の日付もありました。

何を祀ったものなのかははっきりとは記されていませんが、


中央の慈母観音像や
非業の死を遂げた嬰児を悼むと読める文面などから、
件の事件の慰霊のために後年作られたものでしょう。











ただ、このお堂は古地図と照らし合わせると旧西与賀村の領域にあたり、
この場所が事件が起きた場所、というわけではなさそうです。

この手の「貰い子殺人事件」は戦後寿産院事件(Wikipedia)が公になる昭和23年(1948年)頃まで各地で起こっていましたが、
1949年の優生保護法施行によって人工妊娠中絶が事実上合法化されたことでほとんど姿を消しました。

ことの是非については措いておくとして、
ここ最近は保護動物で似たような事件が起きているな、と、
思ったり思わなかったり。

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