2017年11月28日火曜日
多久駅から明治立山炭鉱跡地までを歩く
写真のexif見たら2012年6月だそうで
なんでその時ブログに書かなかったんだろうと訝しみながら書いてましたが、
坑道内の写真ことごとくピンぼけしてるんだもんそりゃお蔵入りを選ぶわな。
いずれ再訪したくもあるのですが、このあたりも若干様子が変わっているし、
壊されてた鍵が修復されてる可能性もあるので
当時のように探れるかどうか。。。
2014年11月8日土曜日
エネルギー今昔
放置が過ぎるのでちょっとだけ写真でも。
三菱古賀山炭鉱の立坑櫓跡を再訪したら、周囲の光景が少し変わっていました。
大正~昭和期のエネルギー産業の柱、その象徴とも言える立坑櫓跡の周りには、無数のソーラーパネル。
太陽光発電もいろいろごたごたしてますし、100年に渡るエネルギー産業の動乱を象徴するような光景に様変わり。
これからどうなるんでしょうね。
続きにはついでの写真を2枚ほど。
三菱古賀山炭鉱の立坑櫓跡を再訪したら、周囲の光景が少し変わっていました。
大正~昭和期のエネルギー産業の柱、その象徴とも言える立坑櫓跡の周りには、無数のソーラーパネル。
太陽光発電もいろいろごたごたしてますし、100年に渡るエネルギー産業の動乱を象徴するような光景に様変わり。
これからどうなるんでしょうね。
続きにはついでの写真を2枚ほど。
2013年3月31日日曜日
多久の炭鉱関係こまごまと
かつて、唐津興業鉄道(現在のJR唐津線)ができるよりももう少し昔、
この写真のあたりから六角川の支流である牛津川まで石炭を運ぶために軽便鉄道という低コストな鉄道が敷かれていた、
という話をとある資料で読みました。
今でこそ佐賀―小城―多久―唐津は鉄道と国道で結ばれていますが、
多久盆地は唐津線が全線開通するまでは一本松峠と笹原峠に阻まれどちらとの交通も不便でした。
その不便を解消するため、この地で炭鉱を営んでいた人が、
佐賀平野の水運の拠点であった六角川河口の住之江港へと石炭を運ぶために軽便鉄道を敷設したという記録があるのですが、
はっきりした資料が残っていないためいろいろよくわかりません。
記録によるとその起点がこの写真のあたりのはずなのですが…。
ただ、その「地の不利」が、
戦前の筑豊炭田と(多久地区を含んだ)唐津炭田の命運を分けた大きな理由であり、
また、その「地の不利」を唐津線を開通させることで克服したことが戦後唐津炭田が輝くことができた理由でもあります。
そんな歴史を秘めた場所だけど、なにせ100年以上前なこと。
現地には何の痕跡も残っていませんでした。
ので周辺の関係あったりなかったりな炭鉱関係いろいろをば。
2012年11月15日木曜日
2012年11月11日日曜日
2012年11月4日日曜日
2012年10月10日水曜日
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