2017年11月28日火曜日

多久駅から明治立山炭鉱跡地までを歩く


写真のexif見たら2012年6月だそうで
なんでその時ブログに書かなかったんだろうと訝しみながら書いてましたが、
坑道内の写真ことごとくピンぼけしてるんだもんそりゃお蔵入りを選ぶわな。
いずれ再訪したくもあるのですが、このあたりも若干様子が変わっているし、
壊されてた鍵が修復されてる可能性もあるので
当時のように探れるかどうか。。。



多久駅から砂原の方へ向かい、
公園入口バス停付近から北の方、
多久中央公園方面へ向かいます。

この道路のあたりに、
明治立山炭鉱から多久駅に向かう引き込み線があったはず。

引き込み線跡の脇にだだっ広い空き地がありました。
この場所は多久炭鉱の創業者中島茂の邸宅があって2010年頃?までは保存されていたようですが、
2012年時点でこんな感じ。
今は何になってるんでしょうね。
多久方面最近行ってないから把握できてない。
奥に三菱古賀山炭鉱の遺構とボタ山が写っております。









余談ですがこのボタ山、三菱古賀山炭鉱のボタ山と紹介されることが多いのですが、
多久市史に掲載された写真のキャプションによると、
おそらく三菱古賀山炭鉱のボタ山ではなく、ほぼ同時代に同所的に存在していた砂原炭鉱のボタ山です。
国土変遷アーカイブスで見ると
砂原炭鉱創業より前の時点でこのボタ山が存在していることから、
砂原炭鉱には前身があって、その前身は多久炭鉱砂原坑だと思うのですが、
時系列に沿った資料が手元になくはっきりしたことはわかりません。
古賀山炭鉱のボタ山はこの向こうに別のが一応残ってますが、現在では元からあったであろう山と一体化しており外見では判別できそうにありません。
このボタ山のふもとにシックナーがあること、
昭和37年時点で古賀山炭鉱の従業員1500名弱に対して砂原炭鉱の従業員が70余名と非常に小規模であることなどから
古賀山炭鉱のボタを粉砕し、シックナーで選鉱、そうやって得られた炭粉を練炭に加工していたのが砂原炭鉱という炭鉱だったのでは、と想像していますが、
砂原炭鉱にも従業員70余名中「坑内」での作業員が40名ほどいたという記録もあるため
坑道掘りをしていた炭鉱だったのかもしれません。


中島茂翁邸宅跡は敷地を取り囲む塀と門扉だけが残っていました。
門扉の正面には古賀山炭鉱のホッパーと炭鉱所ビル。

邸宅の庭にあったであろう石灯籠や
庭石の球状閃緑岩、通称ナポレオン石も乱雑に放置されてました。
道なりに北に進みます。
途中、中央公園入り口を過ぎたあたりに芳ノ谷層の露頭があります。
化石は見つかりませんでしたが、
カニなどが巣穴を掘ったあとが化石化した生痕化石、
「サンドパイプ」は無数にありました。

てくてく歩いて、かつて炭鉱があったあたりに到着。
正面に見える3つの尾根のような傾斜が
ボタ山だそうですが、
明治立山炭鉱時代のボタ山ではなく、
それ以前にこの地にあった
明治鉱業ではない頃の立山炭鉱か、
明治鉱業の東谷炭鉱のボタ山と思われます。
この3連ボタ山?
のあたりの小路を進むとこんなところが。
土塁とそれをくぐるトンネル。
他の炭鉱跡で見た似たような光景や、
「火気厳禁」の警告などから察するに、
この向こうには火薬庫があったと思われますが
向こう側に行く方法が見つからず見ていません。

昭和23年、立山炭鉱を明治東谷炭鉱が吸収するような形で、
明治立山炭鉱が創立されます。
明治立山炭鉱のボタ山はちょうどこのUFOみたいな建物のところです。
バブル景気の頃くらいにボタ山を切り崩して
保養施設が造られましたが、それも今は潰れて廃墟になる寸前です。
 炭鉱の中心施設だった場所が
のちに保養施設の駐車場になり、
保養施設が潰れた後はただの空き地になっています。
 ただその空き地にいくつか水路があって、
その水路をまたぐようなアーチ橋がいくつか残されています。
 運炭用の軌道などがこの上を通っていたのでしょうかね。
駐車場だった空き地の周りの道路わきに、
怪しいスペースが。
地図と照らし合わせると、坑口があったあたりです。
扉はばっちり施錠されて…
たはずなのに
不届き者が南京錠を破壊したようです。
こんなところに入ろうとするなんて廃坑廃墟マニア以外ありえないと思いますが、
同好の士がこんなことをするなんて嘆かわしい限りです。
2012年4月ごろにこの中に入った記事を書いているサイトがあるので、
その頃までにはこうなっていたようで。
しかしせっかく開いていたのだから、
中の様子も見てみましょうか。
…狭い。
と思ったら中はいきなり広くなっていました。
一度閉塞した坑口を、保養施設の排水用に再利用するため無理矢理開け直したようです。
奥は程なく閉塞されていました。
地下水なのか、いろんなルートから流れ込んできた雨水なのか、
閉鎖されて久しい保養施設からつながる排水路から、
このときもちょろちょろと流れ出ていました。

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