2013年3月31日日曜日

多久の炭鉱関係こまごまと



かつて、唐津興業鉄道(現在のJR唐津線)ができるよりももう少し昔、
この写真のあたりから六角川の支流である牛津川まで石炭を運ぶために軽便鉄道という低コストな鉄道が敷かれていた、
という話をとある資料で読みました。

今でこそ佐賀―小城―多久―唐津は鉄道と国道で結ばれていますが、
多久盆地は唐津線が全線開通するまでは一本松峠と笹原峠に阻まれどちらとの交通も不便でした。

その不便を解消するため、この地で炭鉱を営んでいた人が、
佐賀平野の水運の拠点であった六角川河口の住之江港へと石炭を運ぶために軽便鉄道を敷設したという記録があるのですが、
はっきりした資料が残っていないためいろいろよくわかりません。
記録によるとその起点がこの写真のあたりのはずなのですが…。

ただ、その「地の不利」が、
戦前の筑豊炭田と(多久地区を含んだ)唐津炭田の命運を分けた大きな理由であり、
また、その「地の不利」を唐津線を開通させることで克服したことが戦後唐津炭田が輝くことができた理由でもあります。

そんな歴史を秘めた場所だけど、なにせ100年以上前なこと。
現地には何の痕跡も残っていませんでした。

ので周辺の関係あったりなかったりな炭鉱関係いろいろをば。





 三菱古賀山炭鉱鉱山災害犠牲者の慰霊碑。
古賀山炭鉱の遺構が集中している場所からは離れていたため、
こんなところで「古賀山炭鉱」の文字を見つけたときはちょっと驚きました。
40年を経ても綺麗な石碑、まだ新しい献花、ずっと大事に守られてきたことが伺えます。

写真ではわかりにくいのですが、
コンクリートで閉塞された古賀山炭鉱の坑口跡です。


閉鎖された坑口跡ですが、その後この地で操業していた建設会社の資材に囲まれ非常にわかりづらいです。
ここに坑口があると知らなければたぶん見つけるのは困難。


坑口のそばの藪の中にはコンベアのベルトらしきものが放置されていました。
コンベアがあったということはここは本卸…?



場所も話も変わって多久IC付近。
ある筋からの話によるとこれは炭鉱労働者の共同浴場だとか。
ほんとにこれがそれなのかは確認してない。
写真見たのだいぶ前だし中の写真は撮れなかったし。。。

でもこの煙突はそれっぽい感じが…しないでもないかも。



ここらへんについては暇を見つけてのんびり調べていきたいところです
…消えてしまう前に動きたいんだけど、なあ…。。。

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