新宮町沖に浮かぶ相島に行きました。
この積石塚群を見にくのが目的でしたが、結局猫の写真ばっかり撮ってた。
相島の猫はきっといろんな人のブログなりtwitterなりInstagramなりで紹介されてると思うのでそちらをご検索ください。
写真より文章メインになってしまいました。
まあいいか。
案内板から海岸の方へ小路を進んで行くと、
藪の向こうに見えてきます。
まず目に入る相島大塚。
前方後方墳。
よく見ると周濠なんかも石で造ってある。
しかし残念ながら一部は復元されたものとのこと。
250基あまりもあるらしい古墳をひとつひとつ紹介するのも無理があると思って、
おおまかな全景だけ、と撮り歩いてて思ったのですが、
この海岸人工海岸じゃね?
積石塚見学のための通路整備がされたことを踏まえても、
自然にできたにしてはあまりにも不自然なような。
この角度からだと特に、
左側にあった入江を塞ぐように石を積み上げたように見える。
人工海岸というよりも、防波堤とか、石塁って感じかも。
もちろん積石塚の築造は1500年くらい前なので、
積石塚のあるこの海岸が人工的に造られたのならそれよりもっと前、
ということになります。
長い長い自然の営みがこの石の海岸を造ったのか、
1500年くらい前の人々が海を埋めてこの石の海岸を造ったのか、
どちがありえないことだろうかと考えると、
どちらもありえそうな気がしてきて。
見学しておくべき遺跡など他にあれば見ておこうと思って、
島に渡る前にいくつか調べていたのだけど、
島の北部にある、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し、
この島に立ち寄った兵士たちが戦勝を祈願して石を積み上げたという
「太閤潮井の石」の写真を見たときに、
「防塁っぽい」と思ったことがありまして。
その「太閤潮井の石」がこちら。
こちらは崖の上にあるにもかかわらず角の取れた丸い石もごろごろしていて、
人の手によるものなのは明らか。
伝説通りならば、16世紀頃のもののはずですが、
その手の伝説はこのあたり非常に多いので信憑性はどれほどなのやら。
これもあわせて、
島全体か、あるいは島の南部への賊の上陸を阻むための防塁だったのではないか、
と考えたりしたわけです。
防塁と言えば、福岡には元寇防塁という遺跡があり、こちらは元寇の頃、13世紀のものですので、
防塁の上に古墳が築かれている以上1500年以上前が確実な相島とは時代が全然違います。
ところが、江戸時代の儒学者貝原益軒の「筑前国続風土記」によると、
元寇防塁は元寇のときにはじめて造られたものではなく、
上代からあった石垣を修築したものであることを示す文書があるとのこと。
なんらかの脅威に備えた山城とみられるが、記紀や風土記などに記録の残らない
「神籠石」という遺跡が九州北部~中国四国に点在していますが、
相島積石塚群のある海岸と太閤潮井の石は、
それと同じような性質のなんらかの脅威に備えた防衛設備だったのではいか、
という気がしてなりません。
積石塚群は、この海岸の防塁を建造する際に殉職した人たちのお墓だったのではないか、などと。
神籠石遺跡は、似たような性質を持つ水城や大野城などに関する記紀の記述、発掘調査の成果などから、
天智天皇の時代に造られたのではないかと言われています。
性質的に似てるかも知れない相島の石塁、
その正体かも知れない元寇防塁の元になった石垣はというと、
貝原益軒説をとるならばもっとずっと前でしょう。
貝原益軒説では、元寇防塁の元になった石垣が「築石」と呼ばれ、
やがてその言葉が築石がある地域自体を指すようになり、
それが福岡の昔の呼び方、「筑紫」の由来であると語っています。
天智天皇の時代に「築石」が築かれたとすると、
筑紫の名が出てくる記紀や風土記まで50年くらいしかなくなります。
記紀や風土記が成立した時点で「筑紫」の呼び名の由来は誰も知らなくなるくらいの時が必要なことを考えると、
「なんらかの脅威に備えた石積みの防塁」は5世紀くらいまでにはできていてほしいところです。
するとこの積石塚の時代とも整合性がとれてきます。
という妄想で連休を過ごしていました。
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